その汚れた手で触れるな

徳羊舎の濵田です

 

最近、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』をほぼ読み終えました

(付録はこれから読むところ)

 

この小説が発刊されたのは1949年、戦後わりとすぐ

舞台はもちろん当時から見た未来の1984

 

世界には超大国、三つしか存在しなくなります

 

イギリス、アメリカ、オーストラリアを中心としたオセアニア

ヨーロッパ、ロシアを中心としたユーラシア

中国を中心としたイースタシア

(現実が小説に近づいてきてますね…)

 

いずれの国も一党独裁

乱暴かもしれませんがごくざっくり言えば、北朝鮮のような国だと思ってもらえればいいかと

テレスクリーン

人々の生活を「テレスクリーン」と言うものが常に見張っています

テレビと盗聴器・カメラを兼ねたようなもの

(もちろんその他に盗聴器と隠しカメラが無数にあります)

しかも党本部と常にビデオ通話のようにつながっていて、怠けていると怒られたりします

 

今のインターネットに近い姿が不気味です

思考警察

常に党の脅威になるような考えを持つ者がいないか監視するのが思考警察です

 

主人公のウィンストンは党と政府を信じていませんが、仲間は一人もいません

 

彼はある日ささやかな抵抗であったのか、日記を書き始めます

危険な行為です

思考警察に見つかったら収容所送りでしょう

日記

こんな段落がありました

 ドアのノブに手をかけながら、ウィンストンは日記をテーブルの上に開きっぱなしにしていたことに気づいた。一面に‟ビッグ・ブラザーをやっつけろ„と書いてあり、しかも部屋の端からでも読めるくらいの大きな字である。とんでもなく愚かなことをしたものだ。しかし彼は悟ったーーーパニックに襲われた最中でさえ、インクが乾かないうちに日記を閉じてクリーム色の紙を汚したくなかったのだ。

 日記を書いているときに隣人が訪ねて来たんですね

 

「ビッグ・ブラザー」とは党の指導者のこと

実際は存在するかどうかすら分かりませんが、人々は彼を崇拝しています

 

この箇所に行き当たったとき、何か立ち止まってしまいました

 

彼は自分が危険な目に遭おうとも、日記を汚したくなかったんですよね

パニックになったらふつう隠そうとするはずです

日記は彼の自由と心そのものだから

でも、隠さなかった、無意識に

それは彼の体、本能に根付く自由への渇望の発露でした

 

この小説はその「日記」がいかにして徹底的に汚されていくかを描いています

 

日記は結果だけ言えば汚されてしまいました

 

でも、彼があの時、日記を閉じなかったという事実に、痛切な美しさがあるように感じます

心と体がどれだけ蹂躙されようとも、その事実だけは消せないのです

 

それではまた!!

安い高いも感情次第か

徳羊舎の濵田です

 

『セイラ―教授の行動経済学入門』は急ですが、

今日で最後にしようと思います

この後、同じくセイラ―さんが書いた、

実践行動経済学』を注文しますから

届いたらそちらを学ぶブログを更新していきますね

 

『セイラ―教授の行動経済学入門』は、経済学誌に掲載されたセイラ―さんの「論文」をまとめたものです

なので、経験的に庶民は分かってることも、非常に丁寧に「実証、論証」していきます

つまり、このブログで扱うには少し「かたすぎる」かなと…

 

今日は『セイラ―教授の行動経済学入門』のラストに、大事な点を一つだけ

損失回避

どういう実験が行われたかは省いて結論を書きますね

 

人は利益よりも損失に敏感である

そこから人間の経済行動に深い影響を与える、

現状維持バイアス」が生まれます

 

つまり、損をする額を利益が上回ったとしても、多くの人は、

損失の方ばかりを気にして現状維持を選択する傾向」があるということですね

たとえば 物を買うとき

UNIQLOの1,000円のTシャツと、イタリア製のブランド8,000円のTシャツ

 

UNIQLOのはだいたい1年でボロボロになるとします

イタリアでもどこでもいいのですが、本当に良い綿を使って丁寧な加工をしているTシャツは非常に丈夫です

10年もつとしましょう

 

UNIQLOは1年で1000円、イタリア製のものは1年あたり800円

イタリア製の方が安い

 

でも、8,000円は高い、もったいない、贅沢と思ってしまう

 

ここにはかなり「損失回避」の原理が働いていると

つまり、現金が減るという損失ですね

 

短期的にはUNIQLOを買う方が財布にやさしいですが、UNIQLOを10年買い続けるとイタリア製の方が損失が少なくなります

売る場合

「損失回避と現状維持バイアス」を考えると、消費者は、

「損をしていないか」を最重要視する傾向があることを念頭に置く必要があると

(その割に実際はそろばんをはじかないんだけど…)

 

例えば僕がこのブログを有料にして、

一カ月500円」にするとします

十中八九だれも読まないですよね

 

月20本ブログを書くとすると、

一本当たり25円」です

缶コーヒーかジュース一本我慢すれば5~6本以上読めます

(たぶん今のチロルチョコより安い)

 

傲慢だとは別に思わないんですが、ばらつきはあるものの、一本25円以上の価値はあると思っています

 

25円の価値もねーよ!!という人もたくさんいるかとは思いますけど、確かなことは、多くの人が、一本25円ということより、

月500円は高い!!損だ!!アホか!!」という思考になりがちなことだと思います

 

だから「売る側」に立った場合、「損失回避」の傾向をなだめていく必要がありますよね

 

野暮ったいし、好きな作業じゃないけど、商品・作品が生まれるまでの過程(ストーリー)、作るのにかかったコスト(このブログなら平均一本1,000円くらい?)、市場価値なんかを透明化するのもありかも

(野菜なんかも生産者の顔が見えるとお金が出しやすい)

 

現実的な感覚としては、買い手が一本200円(月20本で4,000円!!)くらいの価値がある!!と感じないと、月に500円は払わない気がします

と考えると、ブログとかメールマガジン、オンラインサロンなんてのは、やはり内容の質と市場価値を高めていくしかないのかもしれません

(絶対的価値と相対的価値)

条件が整わないと非常に非効率的です

(濵田はブログを収益化する気はありませんが)

 

今日はそんな感じです

 

『実践行動経済学』が届き次第、そちらの学びに入りますね

 

それでは!!

 

感情とお金

娘と息子が妻の実家におり、三重県に来てから始めて妻とゆっくり二人で過ごしています

 

徳羊舎の濵田です

 

『セイラ―教授の行動経済学入門』、学んでいきましょうか

第三章「不公平なら断ってしまえ」という意思

結論から言ってしまうと、人は「自分に利益があるとしても」、

不平等を感じると感情で動いてしまう」ということです

実験

金額はざっくりと日本円で単純化しますね

 

1,000円があるとします

それを二人で分配します

 

片方が分配額を自由に設定します

0~1000円の間で自由

 

もう一方は、その分配額を「受け入れるか」選択できます

拒否したら、二人とも一円ももらえません

結果

分配の提示額でもっとも多かったのは、

半々」(21例中7例!!)

つまり、500円と500円で分配しようと

 

250円以下の提示額になると「拒否」する傾向が見られました

それは当然なのか?

250円でもタダでもらえるわけですから、もらった方が得ですよね

でも、実際は「拒否される」

 

つまり、

損得以外の理由」が人の経済行動に深く関係していることが分かります

侮辱されたという感情

「不公平に思える賞金の分配案を受け入れるくらいなら、受け取らなくても惜しくない」と言っているのだ。

(『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、40頁) 

 不公平に感じても、自分の利益にしかならないなら、受け取る方が「合理的」です

でも、「不公平だ、なめられている」という感情の方が勝る

 

人は「合理性」(だけ)ではなく、「感情」で経済活動を行っているというのが、行動経済学が発見したことなのかもしれませんね

実際の仕事で

実験と違って色々な要素が絡んでくるので、公平な配分も500円と500円にはならないですよね

 

例えば、1000円を調達するにあたって、二人の人にはかけたコストの違いがある

そのコストに基づいて、700円と300円に分配するのがwin&winの場合もある

 

ともかく、提示者側に立つなら、

「相手に侮辱された、なめられている」という感情を持たせてしまうと、交渉が破綻して、お互いに利益が損なわれることがあり得ると

 

受け手の側に立つなら、正当な利益を得たいなら

「感情ではなく、そろばんをはじけ」ということになります

 

当然なことのような気もしますが

ともかく

人は「合理性と自己利益」だけに基づいて経済活動をしているわけではないと

 

経済活動には「公平性」という原理が働いている

それは提示者にとっても、受け手にとっても同じこと

 

交渉相手に対して自分が有利な、そして強い立場にあるとき、公平性を無視することは損得の面だけから行っても、得策ではないんでしょうね

 

逆に自分が弱い立場にあるとき、感情に支配されずに実を取りに行く必要があるのかもしれません

もちろん、振りすぎる提案は拒否すればいいだけですが

 

こう考えてくると、

「win&win or No deal」(双方の利益を最大化する結論でなければ取引しない)

という、『7つの習慣』を書いたコヴィーさんの教えが思い出されます

 

今日の用語でコヴィーさんの言葉を言い換えると、

取引は強い立場にあっても、弱い立場にあっても、公平性の原理に基づいて厳格に行え」ということになるのかな

 

それではまた!!

物語の輪

恩師の教え

「行間なんて読むな」

 

友の言葉

「書いてあること以外はどうでもいい」

 

徳羊舎の濵田です

 

来週あたりから『セイラ―教授の行動経済学入門』の学びを再開できると思うのでしばしお待ちください

時間はかかると思いますが、この本を読み解いた後は、同じくセイラ―さんが書いた『実践 行動経済学』を読んでいきたいなと思っています

(こちらは実践編なのでもう少し取っつきやすく読みやすいでしょう)

(そっちを先にやればよかったのでは??)

(今更引き返したくない)

写真のセンス

美しい写真を撮る人と、下手な人の間にはどんな違いがあるのか?

 

例えば、身近な例でいうと僕の母と兄は美しい写真を撮ります

僕は絶望的に下手です

写真が表現するもの

母は何となく山や自然が美しいと感じたときに写真を撮るようです

 

兄は「人」の表情とか様子が多いですね

 

「写真に写ったもの自体」が美しいというのもあるんですけど、

何かそれ以外のもの」を感じていたんですね

フレームの外

はしょって言っちゃうと、上手な人の写真には、

撮り手の心」が滲み出ちゃってるんですよね

 

兄の写真で言うと子どもたちに対する「慈しみ」とか

 

自分の子どもの頃の写真をたまに見ることがあります

自分も親になって分かってきたんですが、そういう写真を見ると親は映っていない(撮ってるから)んですけど、

親の自分に対する心の在りよう」が映っちゃってるんですよね

 

僕としては、

「こんな気持ちで見てくれてたんだなあ」

ということがありありと伝わってくるのです

実はフレームの中

だから、「親や兄の心」ってのは、実はフレームの外じゃなくて、

写真の中」にきっちり写り込んじゃってるんですよね

 

「行間なんて読むな」

「書かれているもの以外はどうでもいい」

 

そう、撮影者の心はちゃんと

「書かれている」んです

和音が好き

何だか僕はそういう

「メタストーリー」的なものに惹かれるようです

 

メタとは「超」という意味、ストーリーを超えたストーリー

一つの写真という作品の中にあるストーリー、さらにそこに映り込んだ「親の心」というストーリー

複数のストーリーが和音のように調和したり、あるいは不協和音のように混乱している写真や芸術が好きだなあと

やはり文脈は読まない

映ったもの、書かれたものの中に二重・三重のストーリの輪があります

 

このブログを読んでくれる方は、きっとブログの内容だけじゃなくて、文章の中に滲んでしまっている家族・友のストーリーや濵田のストーリーを読み取ってくれているのかななんて思ったりします

 

自分の目で見たものを撮るのではなくて、ファインダーを通して人と物を見て、心動かされた瞬間にシャッターを切るようになってから、少しまともな写真が撮れるようになりましたよ

 

仕事、商売に関しては、良い作品・商品を作ることだけではなくて、

いかに重層的なストーリーで作品を包むか」が大切なのかもしれません

(意図的にやるのは難しいかもだけど…)

 

それではまた!!

最初の生命体

徳羊舎の濵田です

 

こんばんは、ちょっと最近読書の時間が取れないので、しばらくエッセイぽい短いブログにしますね

 

そうだ、例のポンコツ高校生にまた新たなご支援をいただきまして、

支援総額が65,000円となりました

ありがとうございます

仕事をしていると

なんとなく中心的な仕事は分かっているのだけれど、ついついばらけてしまいがち

(僕の場合ですが)

 

例えばラーメン屋さんなら何だろう?

 

味?

もう少し奥があるような気がします

それがあれば味も「ついてくるような」

 

家具屋さんなら何でしょう

いい作品を作ることか

もう少し奥があるような気がします

 

美容師ならどうでしょう

最高のカットをすることか

やはり、もう少し根本に何かがあるんじゃないかと思ってしまいます

 

つまり、それがあればおのずと「最高の仕事」が付随するような

ただただ、その「ミクロの一点に集中」する

 

最近、牧師業において、もしかしたらそれが見えてきたかもしれません

恥ずかしいので公開しませんが

(何だよ)

 

色々もがいたりあがいたりしますけど、その「一点」が明確になれば、仕事人として一皮むけるときが来るのかもしれませんね

 

それでまた、「もっと奥の狭い点があるわ」と気づいて、さらに分け入っていく

 

職業人としての成熟ってそんな面があるかもしれませんね

 

それではまた!!

後悔するより杞憂に終わる方がいい

徳羊舎の濵田です

 

毎日やりたいことなんですが、何だかんだで二・三日に一回になってしまうこと

それは息子と娘に絵本を読むことです

 

寝る時間になると娘と息子は寝室に入ります

僕もその後を追うと

 

以前は僕が寝室に入るとすぐに、二人ともそれぞれ絵本を一冊選んで、三人で二冊の絵本を読むのが定番でした

 

最近、なぜか絵本を読む時間がなかなか始まりません

 

子どもたちは僕が行くまではそれぞれ寝転がって漫画を読んだり、子ども向けの雑誌を読んでたりするんですが、僕が現れると立ち上がって、「ラウシリ」(ラウンドシリ)というゲームを始めます

ざっくり言うと、手を組まないおしくらまんじゅうですね

どちらかがこけるまでひたすら激しく尻をぶつけ合います

(見てるだけで笑える)

 

僕は横になってそれを眺めているんですが、子どもたちが疲れてくると今度は、逆立ちとか、二連続前転とかY字バランスとかを披露し始めます

その後に絵本を読むこともあれば、そのままタイムアップになることもあります

 

つまりですね、

これ見て~!!」が増えて来たなと

 

新しくできるようになったこととか、上手になったこととか

成長なのか、何かが不足しているのか…??

「わたし(僕)のことちゃんと見てる??わたしのこと大切??」みたいな

 

今日は子どもたちと三人で東京ドームより広そうな公園で遊んできましたよ

二人とも新しくできることが増えました

僕はターザンをして水たまりに尻が水没しました…

 

仕事でも「ちょっと引っかかること」にはなるたけ迅速に対応するようにしています

「杞憂なら杞憂でいい」と思うんですよ

「どうしたの??」って耳を傾けるだけなんで、何もないならそれに越したことはない

何もなくて無駄に動く方が、手遅れになって後悔するより遥かに良い

 

娘、息子については少しお話しする時間と、見守る時間が足りてないかな

 

それではまた!!

たまたま男に生まれました

今日は息子の卒園式でした

 

徳羊舎の濵田です

 

ということで今日は、『セイラ―教授の行動経済学入門』はお休み

 

目を潤ませてるのはやはりお母さんが多かったですね

そもそもぼんやりした父親たちと感情移入の仕方が違う

労苦も違いますしね

 

今じゃあ共働きがけっこう当たり前だったりするけど、三重だと今でも専業主婦けっこうおられます

 

帰りの駐車場で子どもたちが走り回ってました

お母さんたちはママ友同士で輪を作っておしゃべり

 

お父さんたちは待ちくたびれたのか、それぞれ車の中で待機

僕は成り行きというか流れでママたちの輪の外縁にいました

 

人見知りのママが多いので、普通警戒されると思うんですが、たぶん妻のつわりがきつくなって以来、毎日息子の送り迎えしてたから(か?)ギリギリ輪に入れたのかな…

 

こちらも緊張してないし、向こうも警戒してる様子はない

 

何を言いたのかというと、やっぱり女の人は偉いなあと

男ってさんざん楽させてもらってるよなあと

母は強しです

 

職場に出て仕事してるなんて、24時間家で子どもと向き合うことに比べたら何でもないと思います

 

子育ては誰にも評価されないし、夫にさえその労苦は分かってもらえないことがほとんど

 

息子の卒園に祝福を、母たちの頑張りに敬意を払いたいと思います

 

それではまた来週