結局ゴールまで走るだろうな

徳羊舎の濵田です

 

今日は僕の休日なので短めにしますね

ビジネスの話はしません

 

僕の人格の中核にあるものは「ユーモア」です

ムスッとしていることが多いですが、脳は常にスポンジボブ並みにふざけています

 

昨晩ふと気づいたんですけど

もう一つというか、それはユーモアと表裏一体のものなんだけど、僕の人生の中核に「哀しみ」があることに気づいた、というか思い出しました

 

僕、別に全然長生きしたくないんですよ

でも子どもたちが路頭に迷わないようになるまでは生きないとね

 

そう「常に終わりを求めている」んです

死にたいということではない

希死念慮(自殺願望とも呼ばれる)があるわけでもない

不幸せなわけでもない、むしろ今が最高に幸せ

でもね、やっぱりなぜか「すべての終わり」を切望しているんです

 

なんなら明日世界が終わってほしい

子どもたちが犠牲にならないなら

(それは無理なんでやはり終わられても困ると言えば困る)

 

大切な人たちが何人も死んでいきました

「おい!!俺より先に死ぬなよ!!」

って思いましたね

勝ち逃げされた感じ

 

牧師という職業柄、この八年弱で十四人の方々、仲間、友の葬儀を執り行ってきました

当然のことですけど、「泣いたら絶対にダメ」なんですよ

八年ほど前、津市は久居の教会に来たばっかりの時は元気に教会に来てる人もいっぱいいた

教会の役員やってた人もね

一人ひとりと僕のストーリーがあります

 

行方不明になったら速攻捜索に出かけ、危篤になったら秒で車を走らせ、死んだという知らせがあったら時にはご遺族より早く施設に駆けつけました

 

でも絶対泣いちゃいけないんです

牧師が泣いてたら遺族が泣けないでしょ

泣くべき時は泣く

だから牧師は絶対に泣かない

 

そういう「スイッチ」があるんですよ

感情を殺すわけではないんだけど

「葬儀モード」みたいなスイッチがあるんですね

その時は完全無欠の仕事人に変身します

 

ただね、僕に哀しみがないかっていうと全然そんなことはない

泣くべき時に泣かない分、悲しみは沈殿し、蓄積されていきます

それは苦しいことじゃないんです

遺族の終わることのない哀しみを見つめていくために必要なことなんだと思います

自分も哀しみを共有しているということは

 

僕は子どものころから今でも、すごく泣き虫です

恥ずかしいとも思ってない

 

俺、結構頑張ってきたし、実際に何度か文字通りの意味で死にそうになった

死ぬほど頑張ったというか、頑張って死にかけた

分かってます、まだ走れと言うんですね

やればいいんだろ!!

 

 僕、四人兄弟なんですけど、長男の兄貴は、

「自分が生きる理由は家族だけ」って言ってました

僕もそれはあるけど、他のこともある

覚えていたい

 

僕にとっては多すぎるくらいの家族、兄弟、仲間、友が死んでいきました

僕は覚えていたい

ただ記憶するんじゃなくて、「一人ひとりの物語」 を心の中で紡ぎだしてく

 

僕も当然いつか死にます

今のところ、死ぬことは怖くない

そして、僕のことを覚えている人が一人もいなくなっても全然平気

なんなら忘れて欲しい

 

でもね、僕が生きている間は、彼らのことを覚えていたい

そして物語を繋いでいく

 

僕が忘れ去られたとしても、あの人の物語を僕が編んだという「事実」は永遠に何ものも奪うことはできない

だからその「物語そのもの」をも奪うことができない

 

世界(あるいは宇宙?)の記憶をハックして勝手に物語を書き込んでるんです

それが僕の「生き残ってしまった意味」ではないかと

 

残念ながら先に死なれちゃったんで、弔い続けるしかないんでしょうね

だから、自分では望んでいないのに結構長生きして、地べたはいつくばってでも最後まで生きるでしょうね

 

長くなってしまったな…

ほんじゃまた!!