ミーハーに対する反骨精神と親切さの狭間で

Youtubeの「・・・やってみた」って何なの??

と昔から思ってる徳羊舎の濵田です

 

例えば、「・・・を歌ってみた」でもいいんです

で、観てみます

完全に「・・・歌ってみた」じゃないんですよ

 

もう、全力でやって、何回も録音しなおして、きっちり加工して、何なら狂ってる音程も直してたりします

なんで「やってみた」とスカすのか

まるでまだ全然上手くやれますけど、適当に撮ってみましたみたいな感じで

 

日本語的に誠実な「やってみた」はこんなん↓

www.youtube.com

まあ、プロですけど

一発撮りで本当に「遊んでみた」動画です

こういうのならよく分かる

しかし、必死こいてやったやつが「やってみた」とすかして抜かすのはどういうことなのか

なぜ「全力を出し尽くしました、聴いてください!!」と素直に言えないのか

人の評価が気になるのかな

たぶん

 

「やってみた」と「余力」を演出することで、現実よりも自分を大きく見せたいのでしょう

あと、下手くそと批判されても、「いや、別にやってみただけだし」と言い逃れできます

僕個人としてはこういった「虚飾と逃げ口上」は好きになれません

 

そんな動画見るくらいだったら、下手くそな上にさらに無編集だけど「何か光るもの」がある動画を見る方がよっぽど喜ばしい

何を書こうとしてたんだっけ?

そうだ

 

仕事との関連で言えば、これまで僕は「うわべだけ取り繕った仕事」が嫌いでした

どれだけ建物と内装が美しくてもまずいラーメン屋には行きません

 

商品より「作品」になるとその傾向が強くなります

技術は正確だけど内容が皆無で音楽的本質に何も触れていないクラシックのコンサートとか地獄です

(クラシックそのものは好きなんですが)

ただですね

現在は「情報過多の時代」

選択肢が多すぎる

だから、「分かりやすい旗」立てないとクリックしてもらえない

 

Youtubeならサムネイル(そこクリックすると動画が見れる画像)の質と分かりやすさ

音楽系動画なら音質・ビジュアル

ここで最低限の水準をクリアしていないと、この情報過多社会においては見向きもされない

その水準をクリアしていない動画の数は膨大なので探すのが大変すぎます

 

一方でサムネイルとか音質とかビジュアルとか技術とか「外側の保証」がないと「作品の本質」に触れようともしないのか?? と作品の受け手の審美眼の欠如に一抹の寂しさを覚えます

作品の価値を見出すには自分自身の審美眼が必要です

そんなものは十人に一人も持ってない

 

ただ、もう一方では、見つけやすいように「分かりやすい旗」を立てないのは、

優しくないよね」とも思うわけです

何を言いたいのかというと

会心の作品、商品ができたときは、「優しい届け方」をしたいなということです

ただ、たいしたことないけど落第点でもない作品を出さざるを得ない時もあるから、その時も「親切な届け方」をするにこしたことはない

でもやっぱり、「うわべだけ取り繕ったもの」は嫌いだな~

 

画家のゴッホの作品は生前ほとんど見向きもされなかったようですね

世間は基本的に「良いもの、新しいもの、美しいもの」を理解できないから

一方で、ゴッホがもっと人格者で、マーケティングもうまくて、「親切な作品の届け方」をしてたら、受け入れられていたかもしれませんね

十人に一人もいないセンスのある人に受け入れられて、その人たちはゴッホを権威付けして(ブランドをつけて)センスのある人、センスのない人にも繋いでくれるから

 

そういう意味ではゴッホも、作品の受け手に「優しくなかった」のかもしれません

濵田はそういう人に惹かれてしまうわけですが

 

まあ、ゴッホが人格者だったらあんな絵は描けてなかったと思いますけどね

孤独で不器用だったからあんな悲哀に満ちた美しい作品が残せたんだと思います

 

ともかく、世間のセンスのなさとミーハーさに合わせるつもりは毛頭ありませんが、届けば喜んでくれる人、届きさえすれば理解してくれる人、届きさえすれば年月をかけて理解してくれる人を取りこぼさないために、「優しい仕事」をしていきたいなと思ってる今日です

 

それではまた明日!!