物語の輪
恩師の教え
「行間なんて読むな」
友の言葉
「書いてあること以外はどうでもいい」
徳羊舎の濵田です
来週あたりから『セイラ―教授の行動経済学入門』の学びを再開できると思うのでしばしお待ちください
時間はかかると思いますが、この本を読み解いた後は、同じくセイラ―さんが書いた『実践 行動経済学』を読んでいきたいなと思っています
(こちらは実践編なのでもう少し取っつきやすく読みやすいでしょう)
(そっちを先にやればよかったのでは??)
(今更引き返したくない)
写真のセンス
美しい写真を撮る人と、下手な人の間にはどんな違いがあるのか?
例えば、身近な例でいうと僕の母と兄は美しい写真を撮ります
僕は絶望的に下手です
写真が表現するもの
母は何となく山や自然が美しいと感じたときに写真を撮るようです
兄は「人」の表情とか様子が多いですね
「写真に写ったもの自体」が美しいというのもあるんですけど、
「何かそれ以外のもの」を感じていたんですね
フレームの外
はしょって言っちゃうと、上手な人の写真には、
「撮り手の心」が滲み出ちゃってるんですよね
兄の写真で言うと子どもたちに対する「慈しみ」とか
自分の子どもの頃の写真をたまに見ることがあります
自分も親になって分かってきたんですが、そういう写真を見ると親は映っていない(撮ってるから)んですけど、
「親の自分に対する心の在りよう」が映っちゃってるんですよね
僕としては、
「こんな気持ちで見てくれてたんだなあ」
ということがありありと伝わってくるのです
実はフレームの中
だから、「親や兄の心」ってのは、実はフレームの外じゃなくて、
「写真の中」にきっちり写り込んじゃってるんですよね
「行間なんて読むな」
「書かれているもの以外はどうでもいい」
そう、撮影者の心はちゃんと
「書かれている」んです
和音が好き
何だか僕はそういう
「メタストーリー」的なものに惹かれるようです
メタとは「超」という意味、ストーリーを超えたストーリー
一つの写真という作品の中にあるストーリー、さらにそこに映り込んだ「親の心」というストーリー
複数のストーリーが和音のように調和したり、あるいは不協和音のように混乱している写真や芸術が好きだなあと
やはり文脈は読まない
映ったもの、書かれたものの中に二重・三重のストーリの輪があります
このブログを読んでくれる方は、きっとブログの内容だけじゃなくて、文章の中に滲んでしまっている家族・友のストーリーや濵田のストーリーを読み取ってくれているのかななんて思ったりします
自分の目で見たものを撮るのではなくて、ファインダーを通して人と物を見て、心動かされた瞬間にシャッターを切るようになってから、少しまともな写真が撮れるようになりましたよ
仕事、商売に関しては、良い作品・商品を作ることだけではなくて、
「いかに重層的なストーリーで作品を包むか」が大切なのかもしれません
(意図的にやるのは難しいかもだけど…)
それではまた!!