デザインの偏在
徳羊舎の濵田です
最近『デザインのめざめ』(原研哉著)という本を読み終わりました
短いエッセイ集ですごく読みやすい
含蓄もあります
デザイナーの本だけあって装丁も美しく、紙質も独特
末尾で数学者の森田真生さんが解説を書いています
こんな言葉がありました
まず何よりも、デザインは「もの」に働きかけるのではなく、人の心に働きかけるものなのだということが、よくわかる。
僕も似た感想を抱きました
エッセイ集ですから、「デザインとは?」みたいな堅苦しい書き方はされていません
デザインという概念をしっかり把握したわけではないけど、それが少し好きになりましたね
デザインの概念はあらゆる物と事に関わると思うんですよ
例えば筋トレとかダイエット
鍛えるとか痩せるって発想も別にいいと思うんですけど、
「筋肉をデザインする」
「体の線をデザインしてみる」
とか考えてみると、僕の場合もう少し楽しくやれそうな気がします
スケジューリング(予定組み)は、僕の場合、日曜日に一週間分を組んで、あとはその日その日でもう一度組み直していきます
これも単に「予定を組む」じゃなくて、
「美しく自分のスケジュールをデザインしてみる」
という発想でやったら楽しいかもなと
という感じであらゆる局面に応用できるようです
役に立つ立たないというよりは、生活の内実をより豊かに楽しみを含むものにするのに、デザインという概念は助けになるかもしれませんね
ということで、もう少しデザインを突っ込んで学んでいきたいと思いますよ
それでは素敵な一週間を!!
ダサいダサいも好きのうち
徳羊舎の濵田です
かつて東京の大学に通ってました
友達もできまして、その中でこんなやつらが三人いました
「人のファッションにダメ出しするくせに自分は超ダサい」
秋田(濵田の故郷)の人はそもそも人の服にあまり口を出しません
上京した人たちも、人が多すぎて他人の格好に口出しする発想がない感じがしました
ダメ出しマン三人のうち二人は「東京出身」
江戸っ子でした
意外じゃないですか?
(むろん、彼らは江戸っ子の一部であって皆がそうなわけでは全くないでしょう)
身だしなみ思考(他者目線)
彼らにとって「服」とはどうも「身だしなみ」を意味したようです
「その色の組み合わせはないよね」とか、その他もろもろ
とにかく口を出す
そのくせに自分は穴空きまくった安っぽいジーパンに、メーカー不明のタートルネックとか
カーキとかネイビーのパンツに変なチェックのシャツとかとにかくダサい
僕も別に普段「こいつダサいな~」とか全然思わないんですよ
興味ないですし、口出すことじゃないと思ってるし
ただ、「それはなくない??」とダサいやつに言われるて、ふとそいつの格好を見ると、「それ、お前が言う…?」と思ったりしてました
要するに彼らにとって、ファッションにおいて最も大切なことは「無難であり、身の丈に合っている」ことだったようです
僕もスーツなんかについては「身の丈に合ってるか」を確かに気にします
とすると、彼らは身の丈に合っていない、あるいは挑戦的過ぎた僕のファッションに対して、「それだと社会で苦労するよ」と愛をもって語ってくれていたのかもしれません
確かに、人の服に口を出すこと以外は実に気のいいやつらでした
偏愛思考(自己目線)
僕は完全にこれですね
とにかく好きな服を好きなように着る
色も組み合わせも自分的にオッケーだったらなんでも良し
ハイブリット
おしゃれな人のことですね
どっちもできる
つまり、セオリー、色の組み合わせ、身の丈等基本を抑えながら、セオリーを破ってエレガンスを醸し出すこともできつつ、やはり自分の好きなものを大事にする
トレンドも一応は押さえている
防御思考と作品思考
身だしなみ思考の人は、基本的に服を「身を守るもの」として認識してるのかなと思います(防御思考)
偏愛思考の人はとにかく好きなものを着ていれば満足
作品思考までは行かない
偏愛思考が進化したので作品思考で、もう自分の格好全体を「一つの作品」として捉えて、これを創作すること楽しむ
ハイブリットの人はきちんと守りもできて、その気になれば攻めに転じることもできる
というか攻めに転じたときが楽しい
劣化版
防御思考が劣化すると、「無難な格好」ではなくて、「人から見て格好いいと思われるであろう格好」をするようになると
ファッション雑誌をチェックし、流行を追いかけ、自分の「好き」が薄い
一番つまらないパターンだと思います
人の服に口出しするし
うちに来てる高校生たちも結構はっきり分かれています
流行ばかり追いかけて自分がなく、人のファッションに口を出す子
ひたすら自分のお気に入りしか着ないが、美意識のはっきりしている子
など
互いに、
「お前の格好マジでないよな」(流行追っかけてるやつ)
「お前流行り追っかけてばっかで人間としてダサいねん」(美意識はあるけどおしゃれする気がないやつ)
他の分野を考えてみる
考えてみると他の分野でも、僕の場合似た傾向が見られるんですよ
僕は偏愛思考でたまに作品思考
例えば僕がYoutubeの動画作るとしますよね
その時は動画を「作品」とは考えていないんです
むしろ「メディア」(情報伝達)の手段と無意識にとらえています
僕(と高校生たち)の「偏愛」を情報として伝達するわけです
「作品」という意識がないので、大して作り込まない、編集も適当
「偏愛」が伝わればいいからです
ただ、多くの人に届けたいのであれば、動画を作品と捉えて「強度」を上げる必要がありますよね
もう、自分たちで企画から入念に練って「この動画はやばいっしょ!!」というところまで作り込む
それもまた楽しいかも
(まあ時間的にほぼ無理ですが、資金が潤沢にあればできます)
仕事との関連で
基本的に僕の仕事は「作りっぱなし」が多いなあと最近思います
「偏愛と本質」は内容に盛り込んでいるから良しとしている
「分かる人には分かるだろう」くらいで
ただ、自分の仕事を「作品」として捉えると、愛着がありますからしっかり仕上げて世に旅立たせてあげたいと思うでしょう
人の手に届かなかったら、自分の愛する作品に申し訳ないですもんね
だって偏愛してるわけですから
着想、企画、創作、マーケティング、使われ方と人の気持ちとかまでトータルに設計するのが、「作品・商品を届ける」ということなのかもしれませんね
広く認知されるためというよりも、自分の偏愛が生んだ子ども(作品・商品)をちゃんと教育して、たくましく育てて巣立たせたいという親心でしょうか
まだまだですが、そろそろそんな仕事をしないとなあとか考えています
それではまた来週!!
エレガンス
徳羊舎の濵田です
今日、『デザインのめざめ』(原 研哉著)という本を読んでまして
デザインナーの方が書いたエッセイ集です
海外で有料トイレに入った時のことが書かれてるんですけど
すごい清潔感だったらしいんですが、よく見たら便器に「ハエ」が
さらによく見ると、原寸大のハエのイラストだったそうです
そこで著者はこれは「エレガント」だなと
清潔さへの「自信の表れ」だなと感じたそうです
著者的にはエレガンスとは、一つの物事を突き詰めておきながら、
「あえてそれを崩す」とことに生まれるそうです
ハエは「不潔の象徴」みたいなところがありますから、それを描くことは完璧に近い清潔さがあって初めてエレガントに感じられるんでしょうね
そういえば、俳優の菅田将暉さんが『灰色と青』という曲を歌ってます
下にリンクを貼っておきますけど、この動画の中で彼、一見けっこうダサそうな恰好をしてるんですけど、エレガントなんですよね~
僕が同じ格好したら絶対に超ダサいですね
こちら↓(ブランコに乗ってる人)
エレガンスって「品格」とも関係している気がするんですよ
豪華でなくとも品のある仕事、遊び、服装をしたいなあと思った次第です
エレガントに
それじゃまた!!
少年の詩 生涯学徒
徳羊舎の濵田です
昨日は急用が入ってしまいまして
ブログ書けませんでした
申し訳ございません
例のヘッポコ高校生にまた新たにご支援をいただきまして、
支援総額は55,000円となりました
ありがとうございます
抑えがたき好奇心の故に学び続ける
今日はこれから濵田が学ぼうとしていることについて書いておこうと思います
このブログは、
「ビジネス素人がビジネスの学びを共有する」というコンセプトでやってきました
もう一つコンセプトがあるんですけど、それは置いておきます
ともかく、これからはビジネスに限らず「仕事」一般についてという感じでもう少し広く書いていけたらなと
デザイン
デザインについて学びたいんですよ
デザインの具体的な仕方とか以前の、
「デザインとはそもそも何か」あたりから学びたいんですね
デザインと関わらない仕事ってほとんどないと思うんですよ
牧師も教会建つときにはデザインに多少関わりますし
一つ一つの小さい仕事にも、自分の美意識って関わりますよね
なんだろうな~
人から見て美しい仕事をしたいというよりは、自分がほれぼれするような仕事をしたいんですよね
ああ、だから「美学」も学びたいです
(あんな学問あんのかいと思われるかもしれませんが、一応あります…)
建築学
別に教会建てたいからとかではないんですよ
何でだっけな
建築といっても特に設計の部分でしょうね
もう「建物とは」あたりから学びたいですね
「家とは」
「職場とは」
「会社とは」とかも興味津々です
文化人類学
人類の発生について単純に興味があるんですけど、特に興味があるのは、
「仕事というものがいかに生まれたか」
「お金の発生と歴史」あたりですね
経済学
アダム・スミスの『富国論』、カール・マルクスの『資本論』、ケインズの何かくらいは読んでおこうかなと
後はマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をもう一回読んでおきたい
誰でも仕事していれば給料をもらうし、お金を動かしたり、お金の入り口と出口を作ったりしますが、そもそもの経済のシステムをもう少し押さえておきたいなと
神学
キリスト教神学ですね
最近さぼり気味でしたが
いろんなジャンルがあるんですけど、とりあえずキング牧師の説教集でも読もうと思ってます
文学
単純に小説が好きですし、小説に育てられてきましたので、もう少し時間を確保して読もうかと
とりあえず、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』注文しときました
小説はこれから「常に」読んでいこうと思います
僕にとってめちゃくちゃ大切なことなので
読み方
一日の内で読書に割ける時間は30分から1時間
30分なら、15分は小説以外、15分は小説
1時間あるなら例えば実用書、デザイン、文化人類学、小説それぞれ15分みたいな感じですかね
15分鬼のように集中して読みます
小説はもったいないからあえて「遅読」するかと思いますが
そんな感じです
幅広く学ぶ中で、仕事について考えさせられることはたくさんあると思いますから、このブログで共有していければなと
濵田のAmazon欲しいものリストはこちら↓
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2WAK9YHNAXMHP?ref_=wl_share
興味がある本が僕と重なっていれば、代わりに(あるいは一緒に)僕が読んでこのブログにて紹介します
(読書代行サービス)
単に濵田を成長させたいからというプレゼントも大歓迎です
全然期待してなかったんですけど、このリスト公開したら3人の方から合計5つのプレゼントをいただきちょっとびっくりしました
人間と世の中、まだまだ分からないことだらけですね
それではイカした一週間を!!
お休みのお知らせ
すんません~
今日は濵田の都合によりお休みさせていただきます_(._.)_
ミーハーに対する反骨精神と親切さの狭間で
Youtubeの「・・・やってみた」って何なの??
と昔から思ってる徳羊舎の濵田です
例えば、「・・・を歌ってみた」でもいいんです
で、観てみます
完全に「・・・歌ってみた」じゃないんですよ
もう、全力でやって、何回も録音しなおして、きっちり加工して、何なら狂ってる音程も直してたりします
なんで「やってみた」とスカすのか
まるでまだ全然上手くやれますけど、適当に撮ってみましたみたいな感じで
日本語的に誠実な「やってみた」はこんなん↓
まあ、プロですけど
一発撮りで本当に「遊んでみた」動画です
こういうのならよく分かる
しかし、必死こいてやったやつが「やってみた」とすかして抜かすのはどういうことなのか
なぜ「全力を出し尽くしました、聴いてください!!」と素直に言えないのか
人の評価が気になるのかな
たぶん
「やってみた」と「余力」を演出することで、現実よりも自分を大きく見せたいのでしょう
あと、下手くそと批判されても、「いや、別にやってみただけだし」と言い逃れできます
僕個人としてはこういった「虚飾と逃げ口上」は好きになれません
そんな動画見るくらいだったら、下手くそな上にさらに無編集だけど「何か光るもの」がある動画を見る方がよっぽど喜ばしい
何を書こうとしてたんだっけ?
そうだ
仕事との関連で言えば、これまで僕は「うわべだけ取り繕った仕事」が嫌いでした
どれだけ建物と内装が美しくてもまずいラーメン屋には行きません
商品より「作品」になるとその傾向が強くなります
技術は正確だけど内容が皆無で音楽的本質に何も触れていないクラシックのコンサートとか地獄です
(クラシックそのものは好きなんですが)
ただですね
現在は「情報過多の時代」
選択肢が多すぎる
だから、「分かりやすい旗」立てないとクリックしてもらえない
Youtubeならサムネイル(そこクリックすると動画が見れる画像)の質と分かりやすさ
音楽系動画なら音質・ビジュアル
ここで最低限の水準をクリアしていないと、この情報過多社会においては見向きもされない
その水準をクリアしていない動画の数は膨大なので探すのが大変すぎます
一方でサムネイルとか音質とかビジュアルとか技術とか「外側の保証」がないと「作品の本質」に触れようともしないのか?? と作品の受け手の審美眼の欠如に一抹の寂しさを覚えます
作品の価値を見出すには自分自身の審美眼が必要です
そんなものは十人に一人も持ってない
ただ、もう一方では、見つけやすいように「分かりやすい旗」を立てないのは、
「優しくないよね」とも思うわけです
何を言いたいのかというと
会心の作品、商品ができたときは、「優しい届け方」をしたいなということです
ただ、たいしたことないけど落第点でもない作品を出さざるを得ない時もあるから、その時も「親切な届け方」をするにこしたことはない
でもやっぱり、「うわべだけ取り繕ったもの」は嫌いだな~
画家のゴッホの作品は生前ほとんど見向きもされなかったようですね
世間は基本的に「良いもの、新しいもの、美しいもの」を理解できないから
一方で、ゴッホがもっと人格者で、マーケティングもうまくて、「親切な作品の届け方」をしてたら、受け入れられていたかもしれませんね
十人に一人もいないセンスのある人に受け入れられて、その人たちはゴッホを権威付けして(ブランドをつけて)センスのある人、センスのない人にも繋いでくれるから
そういう意味ではゴッホも、作品の受け手に「優しくなかった」のかもしれません
濵田はそういう人に惹かれてしまうわけですが
まあ、ゴッホが人格者だったらあんな絵は描けてなかったと思いますけどね
孤独で不器用だったからあんな悲哀に満ちた美しい作品が残せたんだと思います
ともかく、世間のセンスのなさとミーハーさに合わせるつもりは毛頭ありませんが、届けば喜んでくれる人、届きさえすれば理解してくれる人、届きさえすれば年月をかけて理解してくれる人を取りこぼさないために、「優しい仕事」をしていきたいなと思ってる今日です
それではまた明日!!