サウナのような教会 教会のようなサウナ

「サウナに入るときは教会に入る気持ちで」

サウナ発祥の国、フィンランドではこう言うそうです

 

こんにちは、徳羊舎の濵田です

 

「金浦に教会が建ったらいいなあ」

という濵田の一言に、jam(≒佐藤建徳)が、

「それめちゃくちゃいいな!!」

と乗ってきたのが、徳羊舎というもの始まりだったと思い出しました

(逆に何で忘れてた??)

 

jamの一番美しいところは、仕事ができることでもなく、実績があることでも、高い能力があることでもなく(あるんだろうけども)、

人の夢を決して否定しない

ということな気がします

伸吾くんも言ってたけど

 

夢に現実を突きつけるようなことをしないんですね

むしろ、

「いいね!!」

と乗ってきます

たぶん、あいつもつまるところ、

「面白いか否か」

でしか生きられない人間なのでしょう

 

考えてみると、濵田の父も兄もそうですね

 

父は小学校の教師をやめて独学で家具職人に

普通無理なんですよ

ゼロから、しかも弟子入りもせずに自分のブランド作って四人の子ども食わせて行くなんて

(よく母ちゃんが許したと思います)

 

現実は嫌というほど知っているはずです

 

起業家の兄も同じ

三つのベンチャー立ち上げて軌道に乗せたけど、

「お前も結局親父(フロンティアしないと生きられない人間)の息子だね~」

とヘラヘラ笑っているだけです

 

濵田の成分はほぼ夢しかないので、夢を語りだすとめちゃくちゃうざくなります

実際に子どものころから一定の人々をうんざりさせ続けています

濵田が本気を出し始めると、必ず一定数の人々の怒りを買うことになります

 

でも、もう子どもじゃない

自分に対して怒っている人、自分にうんざりしている方々に好かれる気はありません

かといって見返す気もありません

(何でだろう?昔から見返してやろうというモチベーションがほぼゼロです)

 

もちろん、「迷惑をかけていること」を正当化する気はないというか、したくはないんです

自分のやり方が未成熟だから怒らせてしまうことも多々あります

 

ただ、一定数「自分の存立を脅かされるから」、「自分の存在意義に疑問符を付されるから」濵田の足を引っ張る人もいた気がします

 

サッカーをしていた時も、ギターをしていた時も、牧師になる勉強をしていた時も

 

会わないようにするか、差をつけすぎれば黙るんですけど

 

でも、濵田は病気をして以来、唯一のとりえである、

「圧倒的努力でぶっちぎる」力を永遠に失ったのです

 

じゃあ、ポンコツの濵田に何ができるのか

夢を持つことしかもうできないんです

そう、他に何もない

 

でもどうなんでしょう

夢が叶うかどうかなんてそれこそどうでもいいんですよ

(現実ほど虚構的なものはない)

 

シュタイナーって哲学者がこんなこと書いてましたよ

夢は見ることに価値があると

 

なので濵田は朝も昼も怠惰に眠りをむさぼり続ける、デイドリームビリーバーでい続けたいと思います

いや、い続けることしかできないのです

 

それではまた!!