損得にも色々あるしそもそも気にしない人もいる

徳羊舎の濵田です

 

『セイラ―教授の行動経済学入門』(リチャード・セイラ―著)、学んでいきましょうか

 

※前回のブログは↓

tokuyosha.hatenablog.com

振り返りましょう

前回出てきた重要な言葉は以下の通り

すなわち、人々は相手方が自分を利用していることに気付くまで協調し続ける傾向がある

(『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、26頁)

協調ありきの者は他人からの協調を上手く引き出すほか、他の協調者にやり取りしてみようという気を起こさせて、いい結果を得る。

(『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、26頁)

長期的に見ると、協調ありきのスタンスの人が最も多く収益を得ることが実験で明らかになりました

 

では、人々はそれが最も利益を得るために合理的な方法だからそうしているのか

それとも、「何となく」なのか?

 

もちろん、両方いるでしょう

問題は古い経済学が想定するより、「何となくの人が多い」ということです

つまり、彼らは別に最大の利益が出せるから「協調路線」を取っているわけではないということです

ではなぜ彼らは協調路線を自然と取るのか

それが行動経済学の関心事となります

純粋利他主義

ここでセイラ―さんはアダム・スミスの『道徳感情論』の言葉を引用しています

「人はどんなに利己的であるとしても、他の人々の運命に関心を抱き、彼らが幸せであることを必要とする生まれついての性質があるのは明白である。他人の幸せな姿を見る喜び以外、それによって何ら利を得ることがないにもかかわらず、そうなのだ。」

(『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、27頁)

この人間の性質をある学者は、「純粋利他主義」と名付けました

 

つまり、例えば公共財に出資するとき、

「皆の利益になるならば」という心理が一定数の人に働くということです

 

まあ、本人がやりたくてやっていることなので、突き詰めるとある意味「利己主義」とも言えますがそれは置いておきましょう

ともかく、「何となく協調路線」を取る人たちには、一定の割合で「純粋利他主義」が働いていると考えられるということです

間接的利他主義

この辺が面白いところだと思います

「『正しい』(良い、立派な)ことをすること」は、多くの人にとって明らかな動機となる。ときには『間接的利他主義』と呼ばれることもあるこの動機は、良心を満足させる、あるいは倫理的な義務感を満足させるものと説明される。」

 (『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、28頁)

 つまり、仮に多少損失を出したとしても、

良心の満足という精神的な報酬」があるので実は「正しいことをするのはリスクが少ない」のです

 

日本には「寄付」の文化があまり根付いていないようです

最近は多少なされるようになりましたが

 

寄付でもチャリティーイベントでも、他のプロジェクトでも、投資とか融資をお願いするときに「間接的利他主義」は計算に入れてもいいですよね

つまり、「人は意外と金銭的損得とは別のところでも動く」

「良心の満足」がちゃんと支払われる設計になっているなら、寄付はしやすくなるでしょう

間接的利他主義をもう少し掘り下げてみる

ここからはセイラ―さんが書いていないことです

(少なくとも今日の該当箇所では)

 

例えば寄付とか公共財への出資

これを積極的にするのって「良心の満足」だけじゃないと思うんです

(税金対策の話は置いておきますね)

 

一つは「リスク管理」(リスクヘッジ)の問題があると思います

寄付の文化が根付いていない日本ではピンとこないけど、欧米なんかでは、

富を社会に還元しない金持ちは危険」だそうです

つまり、「義賊」(ルパン…)みたいな人に狙われたり、家族が危険な目に遭ったり

 

だから、「正しいと思われること」をすること、それにお金を使うことで、

社会的安全性」が得られる、あるいは買えるということですね

見栄もあるよね…

後は「正しいことをする人と思われたい」という下心から寄付をする人もいるでしょうね

こちらも「社会的な評価」を得ているので単に慈善行為をしているわけではない

例えば

僕が寄付を集めるとしましょう

 

まず、社会的貢献性の高い事業であれば、「純粋利他主義」で動く人が寄付をする気になる率は高いと予想できる

「間接的利他主義」の人たちもある程度は同様

 

あとは「間接的利他主義」の中で、主に見栄で動く人たち

寄付者の名前を公開するんだったらしてくれるかもしれませんね

あと、事業が世間的に知られていることも重要なので、ある程度事業が世間的に認知されることも必要になってくるとか

 

さらに数字の面で言えば、この「寄付」を「社会という公共財」への共同出資だと考えてみます

まず、儲けなしでも動く(主に)「純粋利他主義」の人がいます

お金でなくても「精神・社会的報酬」で動く「間接的利他主義」の人もいる

そして、1.5倍程度のリターンがある場合は、多くの人は出資限界額の40~60%を拠出することが実験で確かめられている

 

主催者への信頼が大きい場合、ブランドに定評がある場合、このパーセンテージはさらに上がるでしょう

あと、寄付額に対して1.5倍以上の価値のある返礼品、「精神的価値」のあるものを用意出来たら理想的ですが…

(まあこれはきついか)

 

ともかく、寄付を募るにしても、自分の商品・作品の価格を決定するにしても、プロジェクトを行うにしても、

純粋利他主義と間接的利他主義」を計算に含めてあらかじめそろばんをはじいてみたら楽しそうですよね

(リスクの比較的少ない事業なら)外れても全然いいと思います

予測をしておけば、「ここはこうはずれた」という現場のデータが取れるので

 

あと、自分の「お金の使い方」も「純粋利他主義と間接的利他主義」の観点から決めてみることもできますよね

これは単に自分がやりたいだけなので(主に)「純粋利他主義」で損得関係なく行こうとか

ここは「間接的利他主義」で自分の精神的満足が得られるか、社会的なステータスが得られるかなんかを金額に換算して、お金をどのくらい出すか決めてみるとか

 

今日はそんなところにしておきます

まとめると、

「人は損得だけで動いていないし、損得にも見える財産(お金、土地等)以外に精神財産がある」ということでしょうか

 

それではまた!!

人間ってけっこうかわいい?

徳羊舎の濵田です

 

『セイラ―教授の行動経済学入門』、前回(↓)の続きを学んでいきましょう

tokuyosha.hatenablog.com

実験を繰り返してみる

ルールを復習しておきましょう

 

一人の手持ちは500円

出資は0~500円で自由

集まった出資金の2倍の額を参加者全員に等分

 

例)参加人数5人で全員が500円を出資した場合

500円×5人×2÷5人=1000円(最終的に各自が受け取るリターン)

 

これを実験で、同じメンバーで10回繰り返した学者がいました

1回目は前回のブログに書いた通り、平均すると500円の40~60%(200~300円)が出資されました

(正確には53%(265円)でした)

ところが2回目以降、拠出額は次第に下がり6回目には16%まで下がりその後10回目まで横ばい

ただ乗りが得なことを学習した??

前回も書きましたが、出資額ゼロでただ乗りするのが一番リスクが少なく儲けられる方法です

 

例)1人は出資額0、他の4人は500円出資した場合

500円×4人×2÷5人=800(各自が受け取るリターン)

手持ち金は500円出資した三人が800円

出資しなかった人は500円残っているので1300円持つことになります

 

これに気づいた人たちが段々拠出を削り始めて16%まで下がったのではないかと、経済学者も考えました

明確な反証

けれども、10ラウンドの実験を2セット行った人が出たんです

被験者はこれを知らされていなくて、最初の10ラウンドが終わった後に、もう1セット10ラウンドやりますと告げられました

すろとあら不思議、2セット目の第1ラウンドの出資額はなぜか40~60%に戻っていました

 

もし、被験者がただ乗りが得だということを学習したから出資額が16パーセントまで下がったのだとすれば、2回目の1ラウンドから出資額は16%前後になるはずです

だってそうする方が得だと学習したはずなんですから

 

でもなぜかもう一度繰り返すと、また40~60%戻る…

なぜだ??

互酬主義が働く

何回もラウンドを重ねるので、被験者は他の被験者の振る舞いを観察するようになります

 

例えば拠出額0でまんまと800円をせしめた輩がいると、次のラウンドでは拠出額を抑える傾向が生まれます

 

逆に自分より多く拠出した人がいると、次のラウンドではより多く出資する傾向が出てくると

戦略的に考えると…

長期的には」(10ラウンドとか20ラウンドとか)、「最初は協調的な手を打ち、その後は互酬主義で出資する」人が最も利益を出したことが実験で確かめられています

 

最初に出資額を大きくしておくことで、「他の出資者の大きな出資を誘発する」ことができるからです

他の参加者の出資額が大きくなれば当然自分へのリターンも大きくなりますもんね

 

ポイントは1回10ラウンドと「終わりが決まっている」ことです

つまり、最大の利益を出したいならば、後半のラウンドは出資額を大きく誘発する手を打つよりも、損害を出さないことが重要になってくる

例えば10ラウンド目で他の人の大きな出資を誘発するような打ち手って効果がほぼないですよね

だって、10ラウンドで終わりなんだから

 

では、被験者皆が「戦略的に出資」しているから、そう出資額は53%から16%まで下がっていくのか??

どうもそれだけではないようです

 

なぜなら、協調戦略を取ることが合理的でない場合でも、一定数協調路線を取り続ける人が観察されたから

やはり、合理性だけで人の経済活動は説明できない

実は戦略も特に考えずに、

協調ありき」の人が結構多いんじゃないかと

 

協調ありきなんですが、ケチで欲張りの被験者もいますから、徐々に出資額を下げていかざるを得ない

確かなこと

現象として確認されたことは以下の通り

すなわち、人々は相手方が自分を利用していることに気付くまで協調し続ける傾向がある

(『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、26頁)

さらにロバート・フランクという人の言葉を引用します

協調ありきの者は他人からの協調を上手く引き出すほか、他の協調者にやり取りしてみようという気を起こさせて、いい結果を得る。

(『セイラ―教授の行動経済学入門』、リチャード・セイラ―著、ダイヤモンド社、2017年、26頁)

そろばんはじいて、あるいは暗算で戦略を立てて、最初は協調戦略、その後は互酬主義という人も確かにいると思うんです

でも、特に戦略を考えずに協調路線を取る人が思いのほか多い

さらにそういう人が結局ただ乗りを決め込む人よりずっと多くの利益を得ている(笑)

 

こう見てみると、人間って結構かわいいところあるなあと思わされますね

 

さて、次回はいよいよ、

なぜ人々は戦略なしでもまず協調路線を取るのか」という問題に踏み込んでいきたいと思います

この辺からがたぶん行動経済学の真骨頂なんじゃないかな??

 

それではまた!!

その体重計壊れてないか?

徳羊舎の濵田です

 

早速『セイラ―教授の行動経済学』の第二章、学んでいきましょう

協調戦略 人はいつどんな理由から協力するようになるか

ゲーム理論

ゲーム理論というのは1944年に経済学の中で生まれた研究方法です

 

一言で言えば、経済行動を、

「数字」(数学)で分析・考察します

 

前回、行動経済学とは「心理学的な方法」を使って、人の経済行動を解明することだと書きました

tokuyosha.hatenablog.com

その心理学的な分析を行う「前段階」で、「数学」を使うんです

実験によるデータ」がなければ心理学も役に立ちませんしね

実験してみましょう

セイラ―さんはある「公共財ゲーム」という実験の結果を紹介しています

公共財というのは例えば「道路」とか「役所」とか、みんなのもの、公共の財産

 

本では「ドル」で書いてありますが、分かりにくいと思うので、

1ドル=100円

ということにして書いていきます

 

参加者は4人(その辺の大学生??)

1人に渡される金額は500円

0~500円を拠出可能

リターンは全員の拠出総額×(つまり全員で投資した総額の2倍が返ってくるということ)を参加人数で等分

(税金っぽいですな)

 

例えば、4人全員が500円を拠出すると、

500円×4人(拠出者)×2÷4人(参加者)となるので、各自1,000円を受け取ることになります

古いゲーム理論の矛盾

古いゲーム理論は、古い経済学と同じで、基本的に人間を、

「合理的かつ自己利益優先の経済活動を行う」と仮定します

 

たぶん、昔はこの経済学の前提に政府の政策とか、企業のマーケティングも影響を受けてたと思うんですね

 

「合理的かつ自己利益優先の経済活動」を皆が行うと仮定すると、ある意味最も合理的に自己利益を最大化する方法は以下の通りになります

「自分は拠出0、他の3人が500円拠出」

とすると、

500円×3人(拠出者)×2÷4人(参加者)=750円

 

ということで、4人はそれぞれ750円を受け取ることになり、拠出0の人は手元に500円残っていますから、1250円を手にすることになります

仮に他の3人の拠出が0だとしても、自分が拠出しなければ損はしません

それどころか上手くいけば「ノーリスクで」儲けられる

 

これが古い経済学とゲーム理論が前提にする人間像ですね

つまり、

「拠出0」の人が一番多くなるだろうということになります

実験の結果

平均すると40~60パーセントを拠出

つまり、200~300円

 

めんどくさいので、全員が250円拠出したことにしてみましょう

 

250円×4人(拠出者)×2÷4人=500円

各自が受け取るリターンは500円

でも手元に250円残っているので、合計して750円

もともと持っていた金額の1.5倍です

これが100万円手持ちだったら150万円になるわけですから結構でかいですよね

 

これは実験を回数を増やしても、各自の手持ちを1000円にしても、参加人数を80人にしても同じだったと(拠出のパーセンテージが)

一例だけ、40~60パーセントの範囲に収まらない例もあったようです

 

人は「合理的かつ自己利益優先の経済活動を行う」という経済学とゲーム理論の前提、前提と言うからには、

そこからスタート」するわけですよね

つまり、

「前提が間違っていると予測が壮大に外れる」ということ

 

実際、「合理的かつ自己利益優先の経済活動を行う」というモデルには当てはまらない行動を人はすることが実験によって確かめられています

(もちろん、拠出0で1,250円をかっさらおうとする人が少しはいることも確かです)

次回

次は、「なぜ人は40~60パーセントの拠出をするのか、そこにはどのような要素が絡んでいるのか」、一緒に学んでいきましょう

何度か地味な学びが続くと思いますが、根気よく行きましょう

3・4回やるうちに面白いことになってくるかと思います

 

あとですね、この学び、

自分で電卓を打たないと

中々頭に沁み込みづらいと思います…

僕も電卓使って実験の数字を一々確かめてます

(そろばんでもいいですね)

(電卓必要としない人はうらやましいです)

 

それでは!!

お金にまつわる人の心

徳羊舎の濵田です

 

準備が一応できたので、さっそく、

『セイラ―教授の行動経済学入門』(リチャード・セイラー)を学んでいきましょう

行動経済学とは?

ざっくり言えば、経済活動を心理学的に分析する学問だそうです

ja.wikipedia.org

つまり、「売る」、「買う」、「売らない」、「買わない」などの人の経済活動を「人の心や感情」に注目して解明していくと

第一章 合理性と自己利益

行動経済学以前の経済学では、

合理性と自己利益」に従って、人は経済活動を行うということが当たり前に信じられていました

 

でも実際には「不合理で利他的な見える」行動なんていくらでもあります

もちろん、合理性と自己利益に従って経済活動を行う人だってたくさんいるけれども、それを全ての経済活動の前提」にしてしまうのはいかがなものか??

という感じで、主流派に対する「問題提起」として行動経済学はスタートしたのですが、今やアメリカでは主流派の一つになっています

ケチだね

従来の経済学が前提にしている人間のモデルって、

「金に関してケチ」なんですよ

しかも自分の利益しか考えない

 

そういう人たちから見ると、「非合理で利他的」なお金の使い方をする人たちがいます

つまり、あくまで「ケチな人たちから見れば非合理に見える」だけで、「ケチな人には分からない合理性」ということに行動経学は注目すると

逆に言えば、ケチな人の中にある隠された非合理性にも関心を持ちます

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これは僕の娘、息子が描いた絵を、うちに遊びに来る高校生が作った額に入れたものです

下手極まりないみすぼらしい額です

でも、なんか子どもたちの絵にマッチしています

そこで僕はこの額三つを五千円で彼から買い取りました

 

古い経済学からすればこれは「不合理な経済活動」に当たるのでしょう

けれでも僕にとってはいたって合理的な行動にすぎません

 

写真は僕の仕事部屋の壁です

デスクの右手にこの絵が飾ってあります

朝一で部屋に入ってくるときもそうですし、疲れたときは右手を見れば三つの絵があります

少し元気が出ます

金額に換算すると100円分以上は仕事をする力をもらえます

それはあの「下手すぎる額」あってこそなのです

 

下手なりに二時間近くもかけて作った労苦、二時間もかけたのに下手くそというある種の奇跡、そんなストーリーが壁に描かれているようなものです

一日100円分僕の生産性を上げてくれるのであれば、たった50日でもとが取れてしまいます

(ずっと貼っておきますけどね)

 

まあ、そんな感じで、一見不合理に見える経済活動の中にある合理性、逆に一見合理的に見える経済活動の中にある非合理性、言ってみれば「お金にまつわる人の心」がこれからこの本で解き明かされていくのかなと

そんな感じです

 

それではまた!!

 

来週から始めること

「困難は分割せよ」

(ルロイ修道士の言葉)

(何だか忘れたけど、三井ひさしの作品の中で)

 

徳羊舎の濵田です

 

今、土曜の晩、20時ですけど、高校生が教会に来てピアノを弾いています

 

本来ブログの更新はお休みの日ですが、彼の取り組みに力をもらったので、ブログを更新しておきます

来週からのブログ

『セイラ―教授の行動経済学入門』(リチャード・セイラ―著)を一緒に学び始めようかと考えています

 

何か、「大人の学校」的な感じでやりたいんですよね

大学で勉強することって実は高校とかより、

「誰でも理解出来て身につけられる内容」が圧倒的に多いと思うんですよ

 

あの本を全部学ぶには半年くらいかかるかもしれません

学校の「前期」みたいな感じですね

 

金浦に「大人の学校」が実際にあったらいいなあと思うんですよ

そこで、ビジネスも、デザインも、文学も、哲学もあらゆることが学べる

(専門外のことも一緒に学んで行けばいい)

試験も必要ない

学びたい人が学びに来ればいいみたいな

経済学

経済学の本って意外と難しいんですよ

(専門外ということもあるけど)

例えばマルクスの『資本論』とかすごく面白いけど、『7つの習慣より』全然難しいです

(僕は共産主義者でもマルクス主義でもないのでご安心を)

 

だから、取っつきやすくてカジュアルな『行動経済学』がいいかなと

こっちは「買い物」とか「お金の使い方」に直結する話なんで

文化人類学

もし、セイラ―さんの本を学び終えるか、あまりにもつまらなかったらこっちの本を学び始めようかと

 

『うつの医療人類学』(北中淳子著

 

経済学と一緒で、いきなり「文化人類学」という本丸に突っ込むときついでしょうから、身近な問題である「うつ」と絡めながら人類学が学べたらなあと

 

来週月曜からではないと思うけれど、とにかくこのブログで、『セイラ―教授の行動経済学入門』について書き始めますね

 

それではまた!!

サウナのような教会 教会のようなサウナ

「サウナに入るときは教会に入る気持ちで」

サウナ発祥の国、フィンランドではこう言うそうです

 

こんにちは、徳羊舎の濵田です

 

「金浦に教会が建ったらいいなあ」

という濵田の一言に、jam(≒佐藤建徳)が、

「それめちゃくちゃいいな!!」

と乗ってきたのが、徳羊舎というもの始まりだったと思い出しました

(逆に何で忘れてた??)

 

jamの一番美しいところは、仕事ができることでもなく、実績があることでも、高い能力があることでもなく(あるんだろうけども)、

人の夢を決して否定しない

ということな気がします

伸吾くんも言ってたけど

 

夢に現実を突きつけるようなことをしないんですね

むしろ、

「いいね!!」

と乗ってきます

たぶん、あいつもつまるところ、

「面白いか否か」

でしか生きられない人間なのでしょう

 

考えてみると、濵田の父も兄もそうですね

 

父は小学校の教師をやめて独学で家具職人に

普通無理なんですよ

ゼロから、しかも弟子入りもせずに自分のブランド作って四人の子ども食わせて行くなんて

(よく母ちゃんが許したと思います)

 

現実は嫌というほど知っているはずです

 

起業家の兄も同じ

三つのベンチャー立ち上げて軌道に乗せたけど、

「お前も結局親父(フロンティアしないと生きられない人間)の息子だね~」

とヘラヘラ笑っているだけです

 

濵田の成分はほぼ夢しかないので、夢を語りだすとめちゃくちゃうざくなります

実際に子どものころから一定の人々をうんざりさせ続けています

濵田が本気を出し始めると、必ず一定数の人々の怒りを買うことになります

 

でも、もう子どもじゃない

自分に対して怒っている人、自分にうんざりしている方々に好かれる気はありません

かといって見返す気もありません

(何でだろう?昔から見返してやろうというモチベーションがほぼゼロです)

 

もちろん、「迷惑をかけていること」を正当化する気はないというか、したくはないんです

自分のやり方が未成熟だから怒らせてしまうことも多々あります

 

ただ、一定数「自分の存立を脅かされるから」、「自分の存在意義に疑問符を付されるから」濵田の足を引っ張る人もいた気がします

 

サッカーをしていた時も、ギターをしていた時も、牧師になる勉強をしていた時も

 

会わないようにするか、差をつけすぎれば黙るんですけど

 

でも、濵田は病気をして以来、唯一のとりえである、

「圧倒的努力でぶっちぎる」力を永遠に失ったのです

 

じゃあ、ポンコツの濵田に何ができるのか

夢を持つことしかもうできないんです

そう、他に何もない

 

でもどうなんでしょう

夢が叶うかどうかなんてそれこそどうでもいいんですよ

(現実ほど虚構的なものはない)

 

シュタイナーって哲学者がこんなこと書いてましたよ

夢は見ることに価値があると

 

なので濵田は朝も昼も怠惰に眠りをむさぼり続ける、デイドリームビリーバーでい続けたいと思います

いや、い続けることしかできないのです

 

それではまた!!

 

さらば時間泥棒

徳羊舎の濵田です

 

 さて、今日は「可処分○○○」について書いてみます

可処分所得

給料から税金、社会保険、生活費なんかを引いた、

「自由に使えるお金」のことですね

 

インターネットやSNSが普及するまでは、いかに消費者の可処分所得を「奪うか」がビジネス上の重要問題であったと

可処分時間

こちらは可処分所得より少しだけややこしいかもですね

 

要するに一日、24時間から睡眠時間、労働時間、家事、育児などの時間を除いた「一人で自由に使える時間」

 

インターネット、SNSが普及して以来、いかに人の「可処分時間を奪うか」が問題になったと

 

GoogleTwitterFacebookInstagram、最近ではclubhouse

 

例えばGoogleYoutubeをとると、動画の間に広告を差し込むので、視聴者の可処分時間を奪えば奪うほど、企業からの広告費が入り儲ける建付け

いかにネット中毒にして長い時間を奪えるかがカギと

Googleはもっと良心的かもしれませんが)

 

例えば濵田の可処分時間は一日当たり、22~24時の約2時間です

意外と少ない…

 

そう、「意外と」っていうのが大事なのかもしれませんね

だって自分でももっと暇だと思ってましたもん

現実には「融通が効くだけ」で2時間しかないと

 

2時間と考えると、Youtubeのくだらない動画30分見ちゃうとか大損害ですよね

(もちろん素敵な動画もたくさんありますが)

可処分時間を無自覚に搾取されている

 

なので濵田は「集中してサウナ」に入ることにしました

時間泥棒

ミヒャエル・エンデという人が書いた『モモ』という作品があります

その中に「時間泥棒たち」が登場しますが、スマートフォンSNSも下手に使うと、現代の時間泥棒と化してしまうのかもしれません

 

何でしょう…

「一分一秒無駄にするものか!!」っていうのも、それはそれでせこい感じがして嫌なんですよ

 

かといって、巨大企業とかに可処分時間持って行かれるのもしゃくなんですよね

 

なので・・・

僕としては可処分時間を、

「自分以外の誰にも利益をもたらさない無駄な時間」として使ってやろうと思います

(サウナです)

そうです、今でも反抗期をこじらせています

 

今うちに来ている高校生たちが一丁前になったら、スマホも手放そうと思っています

LINEで連絡取らないとダメそうなやつがいるのでまだ数年は保持しますが

 

その時になったら濵田への連絡は家電(いえでん)かGmailにお願いしますね

もちろん、手紙も素敵です

 

「可処分精神」についてもそのうち書くかもしれません

 

それではまた!!