心のずっと奥の方

まいど!!

徳羊舎の濵田です

 

このブログ、FacebookTwitterではシェアしてなくて、20人前後にLINEで一斉送信させてもらってるんですよ

うっとうしい人は遠慮せずにもう送らないでって言ってくださいね

 

そんな中でも、ちょくちょくLINEでコメントくれる人たちがいるんですよね

感想とかちょっとダメ出しとか

 

はっきり言ってすごく励みになってます

うん、やる気が出るし、勉強になるし、本当ありがたい

 

しかし!!

昨日の記事(↓)は分かりにくかったようなので、噛み砕いたバージョンを書いてみますね

tokuyosha.hatenablog.com

横文字使われると分からんくなる…

分かったよ!!

「以下もののふ

みたいな感じで言い換えていくよ!!

 

これね、

ミッションステートメント

使命宣言

としておこう

濵田の場合

俺の人間としての「使命」って何だろう?

前から何となくはあったんですよ(無意識的に実践はしていた)

 

ちょっと恥ずかしいんだけど、コヴィーさんの言う通り、「葬儀での弔辞の場面」を想像してみて、こう思った(そもそも弔辞をして欲しくないという話はややこしくなるのでやめておこう)

 

うん、どうせならけなされたいな…

決してマゾヒストではないんですが

 

こんな感じがいいんじゃないか

「あいつはいつもふざけてるただのアホでした」

「負けても屈服しない頑固野郎でした」

「切らなきゃいけないダメ人間を見捨てられないダメ人間でした」

とかね

 

そう考えてみると、「ああこれは、ユーモアと自由と愛」だなと

 

そういや僕の大学の卒論のテーマ「ユーモア」でした

子どもの頃(小6くらいまでかな)はずっとしゃべり続けて、おどけ続けてたやつで、人を笑わせることが日常というか、もう性癖でしたね

 

「自由」に関しては、生まれてから今でもマジで「支配されること」を異常に嫌います

 

親から手をつながれるの嫌だったんで、デパート行くたびに迷子になってましたもん

(親は好きだったが…)

もう、慣れてくると自分でサービスカンター行って親呼び出してもらってましたからね

あとは駐車場の車の前で待ってるとか

 

「愛」はどうだろう…?

僕めちゃくちゃおじいちゃん子だったんですよ

そう、無口になったのもじいちゃんが死んでからだったな

 

んでね、もう仏様みたいに穏やかなじいちゃんだったんですけど、「酒乱」でした…

 

ある日、じいちゃんが怒って酔って家出しちゃったんですよ

僕、生きた心地しなくて、両親と捜索に出かけましたよ

 

じいちゃん、赤石浜の海の家のゴザの上で見事にふて寝してました

「これこそふて寝!!」って感じで、もう写真撮って額に飾っておけばよかったですね

 

んで、じいちゃんに言ったんですよ

「一緒に帰ろ…」

 

もうボロボロ泣いてましたね、僕

じいちゃんはうつむいてました

んでね、僕からじいちゃんの手を取って、一緒に歩いたんです

涙ボロボロこぼしながらね

 

涙が出たのは安心したからってのもあったんでしょうけど、なんだろう…じいちゃんの痛みが痛かったんですよ

そういえばじいちゃん戦争で中国行ってますけど、一回もそのこと話さなかったですね

 

そのことが関係あるのかは分からないけど、何か誰にも言えない底知れない闇を抱えてじいちゃんはずっともがいてたんだと思うんですよ

普段あんなに優しいのに、闇にのまれそうになった時には酒に頼るしかなかったのかな

 

その闇が許せなかった

じいちゃんをいじめるもの

「僕がおじいちゃんを守んなきゃ」って思ったんですよ

 

その日はやけに月が明るくて、影ができるくらいでした

じいちゃんと手をつないで歩いてる影が、鮮明に海水浴場の駐車場に落ちてたのを覚えてます

原石の再発見

コヴィーさんは、三年後の自分の葬儀の弔辞の場面を思い浮かべろ、その時言ってもらえることが、

あなたの本当の成功だ

と言います

つまり、「ゴール」です

 

と、ここで気づかされるわけです

これは初めから持ってたものだったな、と

あの時もうそうだったな、この時もそうだったな

超おしゃべりだったな、デパートのこと、赤石浜のこと

つまり、「スタート」、原点でもあるんです

 

それが僕にとっては、ユーモア、自由、愛

 

それは人によって様々

 

原石を初めから誰もが持ってるという意味では、スタート

それを削り出すという意味ではゴール

 

座禅の世界でも、「禅心初心」って言葉があります

禅の心は初心を忘れないこと

初めから悟りはある

けれども生涯悟りに向かう(俺牧師なんだけどね)

 

大切なことは原石を再発見して(弔辞の場面の想像とかで)、今度は意識的に削り出していくこと

今までは何となくやっていたことを、意識的にやっていく

 

そのための「使命宣言」です

箇条書きの文章にしてみる

 

ここで僕の「使命宣言」(仮のだけど)一部を参考までに引用しておきましょう 

  1. 私は常に人を笑わせ、自己を笑い飛ばし、自分も笑っていることを喜びとしている。
  2. 私は神以外の何物をも拝まず(牧師なんでね)、何物にも屈服することなく、召命(使命に似たキリスト教用語)によって決断する自由な単独者であることを誇りとしている。
  3. 私は常にすべての人を愛し、命と体と持てる時間を差し出すことを惜しまない。

 

この根本の宣言をさらに自分の立場(僕なら夫、父、牧師とか)なんかによって細分化・展開していく

そして随時更新していく

 

それを僕らのすべての言葉、行動、思いに「落とし込んでいく」んです

それを支えるために「7つの習慣」がある

 

落とし込むには、自分の「心のずっと奥の方」(by甲本ヒロト)にあるものを再発見しないとね

 

今日はそんな感じです

 

ほんじゃお休み!!